北川フラムの対話シリーズ「知をひらく人たち」 第1回「丹下健三」
ゲスト:槇文彦(建築家)レポート
2017年5月16日(木) ヒルサイドプラザ
戦後70年を経て、世界は大きな転換点にある現在。強烈な排他性が地球全体覆おうとしている時代にあって、私たちはいかに他者とつながり、世界に向ってひらかれうるのか。その方途を、先人たちの歩みを通して考えるセミナーシリーズが「知をひらく」だ。

ゲストに建築家の槇文彦氏を迎えて行われたシリーズの第1回は、申込者多数のため会場をクラブヒルサイドサロンからヒルサイドプラザに変更して行われた。
日本の「桂冠建築家」とも言える丹下健三の足跡から、近代建築の問題、さらには現在の日本の建築家が直面する課題がどのように浮かび上がるか。北川フラムの問いかけに応じて、槇は「丹下健三と私たち」というタイトルのもと、スライドを使って丹下の仕事とそこに関わった人たちについて、時代を追って丁寧に説明した。

1930年代から日本の近代建築は世界に紹介されはじめたが、その後第二次世界大戦による断絶を挟み、丹下は戦後の建築家としてタイミングよく出発したことを槇は指摘する。当時の東大・丹下研究室は、大学の研究室であると同時に丹下のアトリエ、そして都市計画のコンサルタントの役割も果たし、槇自身も含む多彩な人材が集まり旺盛に議論を交わしながら設計に取り組んで、戦後日本の名建築を次々と生み出していった。そして丹下の門下生を中心にメタボリズムのグループが登場したが、同時代のアメリカではホセ・ルイ・セルトの影響を受けた人たちがチームⅩを結成しており、これらの動きの結節点にはル・コルビジュエの存在があるというように、当時の建築界はモダニズムという大きな流れに乗ってひとつの方向に向かって動いていたと言える。
ところが1970年代以降、モダニズムはひとつの大きな方向性を失い、さまざまな動向がばらばらの方向を目指して動くようになった。このような状況を「漂うモダニズム」と槇は表現する。「漂うモダニズム」の時代にあっても丹下は世界各地で国家的なプロジェクトに携わり、大きな仕事を実現してきた。丹下に頼まれれば全力をあげて協力せざるをえない。丹下はそのような人をひきつける求心力をもつ、リーダーの資質を備えた建築家だった。
ところが1970年代以降、モダニズムはひとつの大きな方向性を失い、さまざまな動向がばらばらの方向を目指して動くようになった。このような状況を「漂うモダニズム」と槇は表現する。「漂うモダニズム」の時代にあっても丹下は世界各地で国家的なプロジェクトに携わり、大きな仕事を実現してきた。丹下に頼まれれば全力をあげて協力せざるをえない。丹下はそのような人をひきつける求心力をもつ、リーダーの資質を備えた建築家だった。

「漂うモダニズム」の状況において、建築は社会とどのような関係を結ぶのか。槇はさまざまな方向に漂う動きのなかにおいても建築家同士の真剣な議論が行われ、そこから新たなうねりが生まれることが期待できると評した。北川は、いまある建築をどう上手に使うかがこれからの課題と捉えて自身のアートプロジェクトに取り組んでいると述べた。最後に槇は、丹下の建築を世界遺産に登録する活動があることを紹介した。20世紀の世界が目指したモダニズムとは何だったのか、そしてそれはどこに辿り着いたのか。丹下が遺した建築群は、まだ私たちに多くのことを語りかけてくれるだろう。