パス・ザ・バトン バトンを渡すということ RELAY ESSAY 003

- 遠山 正道
- PROFILE
Date : 2011 / 07 / 25
私は、東京で生まれて、青山マンションに23年住んだ。
今、代官山のヒルサイドテラスに住んで20年が経とうとしている。
その二つのことは、対を成しながら、私に多くの影響と、そして課題のようなことを与えている。
そのようなことで、私自身の生い立ちなどからお付き合い願いたい。
生まれは1962年。
60年代といえば、この100年で世界が最も輝いた時代である。
ビートルズ、ケネディ、ヒッピー、ウォーホール、2001年宇宙の旅、アポロ13号など。
青山マンションとは、東京オリンピック開催に向け、拡幅、整備された青山通りに面した大層モダンなマンションであった。当時ニューヨーク勤務から帰国した父が作った我が家の内装は、今風に言えば、ミッドセンチュリーモダンの最先端なるもの。
肘つき革張りのセブンチェアーで食事をし、エーロ・サーリネンのチューリップチェアでクルクル廻って、白いグランドピアノの下に隠れての戦争ごっこ。カラーテレビに、巨大なビデオデッキは最新鋭の神器。
翼が生えている白い巨大な車、ヴュイックだけが、何かロカビリーな50年代感を残したが、成人して映画「ウエスト・サイド物語」を見るならば、ソール・バスのタイトルや上空から真俯瞰のNYの映像などはモダニズムそのものであり、リーゼントのロカビリーとアイビーが対立する図は、まさに時代の移行の瞬間だったことがわかる。
小学生の時に仲間と一緒に乗っていたハンドルがやたらに長いイージーライダーなる自転車は、まさにピーター・フォンダのそれをリアルタイムで体現している。
我が家の回りは、VANジャケット、24時間スーパーyoursなど新しいアメリカ文化の怒涛の流入に街はキラメき、トキメいていた。
Soup Stock Tokyoを始めるとき、1997年に書いた最初の企画書ではSoup Stockだけだったが、それは一般名詞であると却下され、Tokyoを足した経緯がある。
私自身、人生の配られた何枚かのカードのうち、東京のあの青山の家で生まれ育ったことは、特異な自分のカードの一枚になるのではと考えた。
ありていに言えば、一番良い時代の一番良い環境で体現してきたものと、現実の目の前の環境とのギャップを何とか埋めることが、自分にできるミッションであり、価値になるのではないかと考えたわけである。
それが、Soup Stock Tokyoの根底にあり、言葉では言わぬが、現在までの私の関与していることの無言の下地になっている。
因みに、青山で生まれたことをカードに、、、などと厚顔なことを、と言う向きもあろう。
自分では選べぬ生まれた環境を云々するという事もどうかと思うが、他の例を引けば、北海道の大自然で美味しい水を飲んで育った人、音楽教師の家に生まれモーツァルトは聞き飽きるほど聞いてきた人、昨今でいえば何らかの被災の経験が強く傷として刺さり、それをバネに逞しく生きて行く人、などなど、色々な人生のカードが有り得る中、青山や家具など何と物質的で軽々しいカードであることか。
そうだろう。
しかし、私には、それ位しか見出すことができないのだ。
そしてそのカードを、大事に、強く握り締めているのである。
さて、60年代にその環境を与えてくれた父は、私が11歳の1973年、47歳の若さで他界した。
そして今、約40年が経ち、私は当時の父の年齢を越し、娘は当時の私の年齢を越した。
さて、あの頃父が与えてくれた環境と影響を、私は今の娘に与えられているのであろうか、と考えるならば、残念乍らその彼我の差は大きい。
私が受けたバトンを、今度は私がそれを磨いて次に渡さなければならない。
そんな時がくると、無意識に思いながら、無理して選択したのが、ヒルサイドテラスに住む、という背伸びの行為だったのだろう。
ヒルサイドテラスという絶好の環境を得て、20年が経った。
今度は我々が何を作り、提供し、つなげていくのか。
60年代とは時代は違う。
ビートルズはいないし、カラーテレビは溢れかえった。
それでも、今の時代だからできることがあるだろう。
何かを生み出し、次に渡していく。
そんな立派なバトンを手にしていると思うと、むしろ背筋が伸びて、なんだか勇気が湧いてくる。ビートルズでなくてよい。小さなことでもよい。
自分が既に当事者になったことを知れば、バトンを手にしているのは自分なんだと知れば、あとは前を向いて走って、走って、走って、ちゃんと思い切り走って、そしてバトンを渡せば、きっとそれでいいのである。