RELAY ESSAY

4年目の春 RELAY ESSAY 015

末盛 千枝子

Date : 2015 / 03 / 18

 あれから4年が経つ。私は、その前の年、2010年に、現代企画室から『人生に大切なことはすべて絵本から教わった』という本を出していただき、それを置き土産のようにして、5月に東京を離れ父の故郷の岩手に移り住んだ。そのタイトルはちょっと大げさかと思うが、でも本気でそう思っているのだが、そもそもそれは、クラブヒルサイドの連続セミナーの記録であった。本当に熱心に聴いてくださる女性達を見て、自分の考えていることも、まんざらではないのかもしれない、と毎回励まされていた。もっとも本にするにあたっての編集の方達のご苦労は、どれほどだったかと思う。本当に不思議な経験だった。そして、その本がきっかけで、私は岩手にも友人ができ、講演なども頼まれるようになっていった。
 ところが、それから一年もしない2011年の3月にあの震災が来た。たまたま夫も息子も家にいて、3人とも安全だったのは幸運だった。私の住むところは山沿いなので、津波の心配はなかったが、岩手ではどこも電気が通じず、どこで何が起こっているのか、全くわからなかった。ただ、大変なことが起こったのだということだけは充分にわかっていた。たぶん世界中の他の地域の人たちの方が先に、三陸の惨状を知っていたと思う。数日して、やっと電気がつき、電話が通じ、テレビを見た時の驚きは、忘れられない。ありえないことがおこっている、これはCGではないのかと本当に思った。とっさに、父も母ももうおらず、この悲劇を知らなくてよかった、と思ったのをおぼえている。
 すぐに世界中の友人たちから、自分たちに何が出来るか、というメールがどんどん届いた。私は、自分が長い間絵本に関わり、しかも、IBBY(国際児童図書評議会)という組織で国際理事を務め、様々に被災する各国の子どもたちに手を差し伸べる活動をしてきた。しかし、ついに自分が受ける側になったのだと瞬間的に知った。そして、とんでもない目に会った子どもたちのことが不憫でならなかった。今まで知ってきたあらゆることはこの時のためだったのか、と思うようだった。想像もつかない目にあった子どもたちに、「あなた達のことを考えていますからね」と言いたいがために絵本を送りたいと思った。そして知人達にメールを送り、「本を届けることは誰かに頼みますから、絵本を送ってください」と頼んだ。そのとき、最初に動いてくれたのが、ヒルサイドテラスだった。本当に有り難かった。
 それからすぐに「3・11絵本プロジェクトいわて」という名前をつけて、プロジェクトが立ち上がった。報道もされ、瞬く間に20万冊を超える絵本が拠点の盛岡市中央公民館に集まってきた。そして、それまでも、そこで何かがある時に働いてきたボランティアや、絵本の関係の人、保育士だった人などが集まり、それぞれに自分の得意なことで働いた。
 今考えても、実に有効だったと思うのは、どんなに大変でも時間を決めて活動していたことだ。20万冊という本を前にして、「これではいつになったら」という思いもあるのに、である。1時から3時というのは、主婦にとっては、一番都合の良い時間だった。そして、今年の2月現在、これまでボランティアとして働いた人は7500人を超える。みんなそれぞれ、自分の得意なことをして、実に気持ちよく働き、良き友人になっている。

 初めて被災地に入ったのは震災から1ヶ月もしない、4月4日だった。自分でプロジェクトを言い出しながら、やはり、本当に現地に入るのは怖かった。山を越えて、だんだん川沿いに津波が逆流した跡が見えてくると、緊張した。最初に行ったのは、宮古の保育園だった。町のなかには信号もなく、船はあちこちに打ち上げられているし、家々は無惨に壊れていて、道の両側にはものすごい瓦礫が積み上がっており、かろうじて、車が通れるようになっているだけだった。その保育園はたまたま新しい園舎が出来上がったところで、これから引っ越しをするところだった。子どもたちは、近くの工場の人たちに、一人ずつ抱っこされたり、おんぶされたりして、山の上に逃げて、小雪のなかを一晩過ごしたということだった。保育園と言えば、赤ちゃんもいるわけだし、本当にどんなに大変だっただろうか。

 宮古の隣に山田という町があり、宮古の保育園の園長さんに「山田も見て行ってください」と言われた。山田は海沿いにあったオイルタンクが倒れ、そのオイルが海に流れ出し、海面が一面火事になったところだった。本当に無惨だった。そこは私の父の先祖の地だった。そこのJR山田駅の焼跡に足を踏み入れると、若いお坊さんが小雪のちらつくなかでお経をあげておられた。本当に有り難いと思った。まるで、『ビルマの竪琴』の水島上等兵のようだった。後で知ったことだが、その方は、三陸の海岸を久慈から石巻まで、ずっと祈りながら素足に草履で歩くおつもりのようだった。自分にはこれしか出来ないからと言って。私は、あの焼けただれた駅の残骸のなかで、あの方にお会いしたことを一生忘れないと思う。そして、あの方にお会いできたことを本当に有り難くしあわせに思う。宝物のように貴重に思う。

 私たちは、絵本をお貸しするのではなくて、子どもたちに好きな本を持っていってもらうようにしている。なかには、自分のためでなく、妹のためにもらってもいいか、と尋ねる子どももいた。先生方も被災していて、まるで絵本に飢えているようだった。「先生方もどうぞ」と言うと、本当に嬉しそうに、「いいんですか?」といって選んでいる姿が忘れがたい。
 大船渡の保育園に行った時のこと、好きな本をもって行っていいよと言われた子どもたちは、我れ先に好きな本を探していた。ところが、一人の男の子がなかなか決まらず、一生懸命箱の中を探していた。その子の探している本がなかったらどうしよう、と心配になって、私はつい「これはどう? こっちはどう?」と声をかけた。ところが、その子は「ちがうの、ちがうの」と言って探し続けていた。そして、ついに「あった!」と嬉しそうな声をあげて、小さな赤い表紙の『ちびくろサンボ』を探し出すと、それを抱きしめて帰って行った。本当に健気だった。

 今では、活動もいろいろと変わってきていて、新しい遊びを作り出したり、自分たちで紙芝居を作ったり、沿岸の人たちと交流しながら、福島や、宮城にも出かけて行くことがある。槇文彦氏が設計した宮城県名取市にある「希望の家」で操夫人のご縁で、盛岡から引っ越した絵本プロジェクトのメンバーが活動している。最初のころに、絵本をもらって嬉しそうに頭の上に掲げていた女の子の写真が、パンフレットにあるのだけれど、最近、その子が、大きくなった姿を見せてくれて、私達の感激もひとしおだった。そこに、希望がはっきりと姿を見せているようだった。
 たまたま引っ越したのが岩手だったが、いま岩手にいて、絵本を通して働けることを本当に有り難く思う。これからの世界は、どうなるのだろうかというほど大変な時代だと思うけれど、あの震災を経験した子どもたちは、きっと世界に希望を与えてくれるに違いないと思う。経験した悲しみの数だけ希望もあるはずだと思うからだ。

 絵本プロジェクトの活動をまとめた『一冊の本をあなたに 3・11絵本プロジェクトいわての物語』という記録集が出版されており、ぜひご覧いただきたいと思います。

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