銀座–まちづくりの歴史 RELAY ESSAY 014

- 福原義春
- PROFILE
Date : 2014 / 07 / 24
これまで縁あっていろいろな地域おこしや町づくりにかかわったり、見て来たけれど、だんだんわかって来たことは、一つ一つが全く成り立ちも違えば性格も異なっていることだ。
何よりも背景にある資源が違う。そして主唱者やリーダーたちの理念が違う。さらに営々と協力し実現して来たフォロワーたちの努力と知恵が蓄積されて詰まっているのだ。
特異ともいえるケースが銀座である。もともと銀座は明治維新の落し子のようなものである。明治新政府の大方針は旧来のものを捨てて日本が西洋の風を取り入れようとするものであった。
銀座の地名はどこから来たのかと言えば、徳川幕府の銀座鋳造所に与えられた名称であり、日本橋の金座(現在の日銀の辺り)と同じように特に人気のある場所ではなかった。この時代に銀の価値は高かったので労務者の検問も厳しく、人影はまばらであっただろう。しかもそのすぐ先は汐留や汐見橋なので、地名の通りそこまで海が来ていた。
後に新橋(現在の汐留)発の日本で最初の鉄道が開通するが、今にも残る木版画には多分大森のあたりで波しぶきを浴びる蒸気機関車が描かれているのだ。
だからこの辺りにはお客になるような人たちが出てくることはなかった。
たまたま明治二年には江戸時代から間歇的に起きた大火があって、東京の多くが消失した。それを機として構想されたものは、遥か将来を見据えた大プロジェクトであって、今から考えてもその先見性に驚く他ない。
その構想を要約すれば、①今までになかった大商店街を作る ②日本の人々にとっては諸外国の進歩した文明の産物を紹介したい ③同時に訪日の増加が予想される外国人の目には日本を代表する商店街であり、日本のすぐれた商品を扱う商店街としたい。更に続いておきた明治五年の大火をきっかけに ④耐火建築である煉瓦造りの商店街を東京の防火壁としたい とするものであった。
そこで政府のお声がかりで新しい商店街を作らせたのだ。当時の入店者は煉瓦建てのビル長屋に先を読んで申し込んだのだが、その頃は入居者もまばらで、新しく作り始めた煉瓦も湿気がちで、ネズミやゴキブリなどが走りまわるような状況であったらしい。
明治新政府の構想は、由利公正東京府知事によって更に強化され、拡大された。
由利の計画は、銀座通りをパリなみに二十五間(約45メートル)に拡幅することなどを含んだ壮大なものであったが、井上馨大蔵大臣にとっては膨張した計画では政府支出が到底耐えられないので、由利は外遊を命じられ海外に出ている間に解任されてしまった(しかし、その都市計画は、関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁となった後藤新平に引き継がれる)。
かくして銀座計画は、恐らく井上蔵相とテクノクラートによって実務的に進められ、言わば公設の新商店街として出発することになった。しかし難産の銀座の構想は入店者の募集から相当難しかった筈である。全く新しい商店街が出来たとしても、勇気を持って入店した人たちの覚悟は大変だったことだろう。
歴史にifは許されないというが、もし由利公正の「大風呂敷」と評された構想が実現して、シャンゼリゼ並みの街路が出来たとしたらどうなっていたかとも思うことがある。果たして世界の商店街になれたであろうか。シャンゼリゼは現在ではまるで自動車道路になってしまって、両側の商店街の交流もなく、きわめて非人間的な通りになってしまった。時には銀座はそうならなくてよかったと思うことがある。
それから時代を経ていろいろな変化があった。大正十四年には関東大震災が起き、地震後の大火で殆どは焼失した。しかしその後の復興は目覚しく、忽ちにしてバラック建築であっても多くの商店が再建した。しかもそれらのバラックは大正モダンの色を強く持ち、今和次郎や村山知義を含む自由な作品であったことが伝えられている。勿論本建築による本格復興によってそれらは全て失われた。また、明治~大正期まで、銀座は一丁目から四丁目までで、現在の五丁目から先は尾張町・竹川町・出雲町、南金六町だった。それらが昭和五年に銀座五丁目~八丁目と改称された。
大正8年には銀座通商店会が結成された。公設商店街として誕生した銀座は、この頃から次第に店主たちの発言力が増し、言わば公設民営の色彩を強めてきた。元来が新興の銀座通りの店舗の寄合世帯だったので、地域の古顔の商店という存在がなかった。その顔ぶれは、天皇家が東京に移られたために京都から移ってきた皇室関係の業者、全国からやってきた老舗、新興の商店などの混在であった。それが商店街を作る頃には連帯と自治を強めて来た。そして多くの政府機関たとえば内務省国土局、東京市、京橋区などに対して、自分たちの町であるという発言力を強化して来たのであった。
今日では公設民営の商店街として全国でも珍しい機能を持つに至っている。たとえば銀座まちづくり協議会は中央区と検討を重ね、銀座地区の建築の高さ基準(最大56メートル)や建築プラン、色彩などを審議している。
その間に銀座の店舗は時代とともに変遷した。明治には通信社、新聞社の街であったものが、商店や飲食店中心にに替わり、第二次大戦後服地屋や舶来品を扱っていた商店が銀行、証券会社の支店になり、このままでは商店が減って金融街になってしまうと心配もされた。その後バブル崩壊後の経済変動によって、最近は外国の高級ブランド品とファストファッションが共存する街となった。
現在では銀座通連合会の中に、海外の高級ブランドによる銀座・インターナショナル・ラグジュアリー・コミッティ(GILC)も組織され、ブランドビジネスを展開しながら銀座の街の商習慣を保つ活動も行っている。
民間自治の結束があって、道路の清掃も行き届き、通りにはゴミ箱もなく、イベントなどがあっても犯罪の殆どない、安心した買い物の廊下が実現している。道路の清掃にしても、今でも決められた日の朝から各町会ごとに清掃活動が実施され、例外的な街づくりが実現している。
銀座に世界中のブランドが出店しているように、最近の来街者もアジア各地ばかりでなく、欧米からの旅行者も目立って増加している。各店でも外国語の対応が可能な店員を配置することが多くなった。
明治新政府が掲げた銀座の基本コンセプトのひとつが外国からの観光客にアピールすることであったが、150年を経てそれは本格的に実現しつつある。
実は銀座が栄えてから、全国に三百箇所を超える「○○銀座」が出現したのだが、その多くは現在では衰退してしまった。
それなのに本家本元の銀座のみは世界の有数の商店街として繁昌している。それはなぜだろうか。明治政府の描いた大きな絵、それを可能とした決断。さらには民間の自治に大きく任せるようになってからは民の力、活力が街づくりに大きな推進力となった。前述の、時代によって主役の業種が入れ替わる新陳代謝もそれに寄与している。
銀座通連合会も創立されてからそろそろ一世紀になる。現役も古顔も、古い地権者のような既成権力に占められることなく、常に現役の商店経営者が選挙で選ばれて交代で役目を果たして来た銀座通連合会が適切に時代に対応して来たのだ。それと、時代がどう変わろうと次々と交代して行く商店を引き寄せるような場の力もあったのだ。
いつも「この先銀座はどうなるでしょうか」と将来を心配する質問に出合う。正直に言って長年ここで仕事をして来た私にもどうなるかよく判らないのだ。しかし銀座はいつも変わって、お客さまに変わらぬ魅力を提供している。そのお客さまだって、代が替わり、顔つきも変わって来た。
しかし変っていないのはお店の力による自治の力と、官民の緊密な協力が銀座を安心安全な街として保っていることなのだ。